どくしょ絵日記

面白かった本を紹介します(お絵かき付き)

Four Colors Suffice

 

Four Colors Suffice: How the Map Problem Was Solved: Revised Color Edition (Princeton Science Library)

Four Colors Suffice: How the Map Problem Was Solved: Revised Color Edition (Princeton Science Library)

 

邦訳はこちら  四色問題 (新潮文庫)

4色問題である。その証明が、現代的な論争を引き起こしたという経緯があり、関心を持っていたトピックだ。「これは、証明なのか」「そもそも証明って何だ」という内省を数学者の間に引き起こしたというから、穏やかでない。

「これは、〇〇なのか」といった物議でまっさきに頭に浮かぶのは、1917年、マルセル・デュシャンがトイレを美術展覧会へ出品した事件ではないだろうか(作品名「泉」)。トイレは芸術なのだろうか?

この出来事は、嫌悪と賛同がないまぜになった反応を引き起こして、「芸術とは何か」という反省を人々に強いた。それ以降、無数の人々、無数の作品によって繰り返し問われる続けることになる問いを、もっとも印象深く初期の段階で示したのだった。

では、数学における泉は、どのようにして生まれ、どのように現代に根付いたのだろうか。

 

4色問題とは、地図を色で塗り分けてエリアを区別する際、少なくとも何色必要か?という問題である。互いに隣り合っているエリア同士は違う色で塗る必要がある。例えば、ドイツとフランスには違う色を使う必要があるが、アメリカとブラジルは隣接していないので同じ色を使っても構わない。

エリアの数が多いほどたくさんの色が必要な気もするが、いやいや、隣と色が違えばいいだけだから、色はそんな必要じゃないぞという気もする。大方の予想では「4色あれば十分」である。しかし、それを証明するのが難しい。

この問題が明解に提示されたのは、1852年だそうだ。ド・モルガンが「生徒からこういう問題を受け取ったのだけど」と手紙に記している。この単純な見かけを持つ問題は、実は一筋縄ではいかず、解決に至るまで結局120年以上の月日がかかった。それも、数学者の頭脳によって解かれとは言いきれいような形で解決がもたらされた。つまり、コンピュータの力を借りて。

 

まず本書冒頭で、4色問題に取り組む上で基礎となる道具、有名なオイラーの定理が紹介される。多面体を考えたとき、

面の数 - 辺の数 + 頂点の数 =2

が常に成り立つというものだ。

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オイラーの定理は、多面体からその着想を得ているがその応用範囲は広い。多面体を光で照らして地面に映すと、平面上に描かれた模様=地図へと射影される。だから、地図について成り立つ性質でもあるのだ。また、この模様を、点を線でつないだネットワーク上のグラフと解釈すれば、グラフの性質を述べているとも言える。(というか、オイラーの定理といえば、今日ではグラフ理論の定理を指すことが普通)

 

オイラーの定理から、すぐにいくつか重要な定理を導き出せる。「いかなる地図も、お隣の数が5つ以下の国を必ず含む」という定理もその一つだ。つまり、次の5つの形の国のどれかは、必ず地図に含まれる(Unavoidable)。これをUnavaoidableな集合という。この定理では4つの要素からなる集合だが、実は膨大な要素からなるUnavoidableな集合が存在する。これが後に4色問題の証明で決定的な役割を果たす。

 

Unavoidableな集合の一例↓

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4色問題への取り組みの途上でもっとも貢献した人を挙げるとすると、ケンプとバーコフの2人だろう。彼らは地図の色数を減らす(Reduce)手法を示した。

例えば、5色で塗られた地図があったとしても、それを上手く塗り替えると実は4色で済むのではないか、という疑問が当然わく。難しいのは、色を減らそうとある箇所を塗り替えると、隣と同じ色になったりして、今度はお隣も別の塗り替えなきゃいけない…といった連鎖が起こって、結局、局所的な塗り替えが地図全体のグローバルな塗り替えを要求してくるという面である。キリが無さそうな話である。しかも、我々は、ある特定の地図だけを話題にしているのではなくて、あらゆる可能の地図が、4色で済むのか?という問いに答えようとしているので、かなり難しそうな感じがする。

そんな中、ケンプとバーコフは、多くのパターンで色数を4まで減らせることを示した(Reduceできるパターン)。

 

Unavoidable, reduceという概念が明解になるとともに、4色問題を解くには何を証明すればよいかも明解になっていった。4色問題は、「UnavoidableReduceできるパターンの集合が存在する」ことを示すことに帰着する。(※理由が気になる人は、一番下に説明あり)

 

Reduceできるパターンかは、ケンプ、バーコフの方法で調べられるとして、Unavaoidableな集合はどうやって見つけるのか?ここで、放電(Discharge)という、一風変わった手法が考え出された。地図の各国が電子をいくつか持っていると想像して、それらを隣国に渡して放電させることによって、電子の分布を変えてゆく。そして、その電子の分布状況から推察して、「必ず地図に現れるパターン」を見つけることができるのだ。

このあたりは、証明をやっているような実験をやっているような不思議な印象を与える。放電させてその後の電子分布を調べる、というは物理実験ではないのか?数学とは他の科学と違って、実験による確認や反証が不要な特権的な分野という数学観が世にあるが、いつのまにか実験もどきが忍び込んできているような感じなのだ。

ともかく、Unavoidableな集合の要素は次々と見つかっていった。しかし、ReducibleUnavaoidableな集合がなかなか見つからない。その探索をもっと速く、膨大なチェックをシステマチックに行わなければならない。コンピュータが活用されるのは必然の流れだった。

1976年、アペルとハーケンが、ついにReducibleUnavoidableな集合を突き止めた。その論文はやたらと長かった。100ページの本文と、700ページの補足、1万個の図、100ページの要約から成り、1000時間のコンピュータの計算時間が費やされていた。決着がついた。地図は4色で塗れる。

 

4色問題に決着がついたは確かだったが、数学者の反応はまちまちだった。否定的な意見は、

  1. 人の頭とペンで解けていないものを証明と呼んでいいのか
  2. コンピュータプログラムにバグがある可能もあって疑わしい
  3. コンピュータにひたすら長い計算をさせただけで、深い洞察や理解を通して解いたわけではない。理解を欠いた解決であり、ひらたく言うと美しくない。

といったものだ。

アペル・ハーケン論文賛成派からの応答は次のようなものだ。

  1. コンピュータは数学者の脳やペンの延長である。
  2. コンピュータにやらせたからこそ、むしろ逆に信頼度が高い(人間よりもミスが少ないはず)

 私からは3番目の論点について述べたい。まず、4色問題とは、ReducibleUnavoidableな集合をひたすら探すということに帰着している以上、この馬鹿らしく長い探索は避けて通れなさそうである。仮に人がコンピュータの力を借りずに長い計算をできたとしても、ひたすら計算しただけという不満は相変わらず残る。

結局、4色問題とは、力技でしか解けない種類の問題である。コンピュータを使ったから不満なのではなく、問題の性質自体が不満を呼んでいるようだ。

 

歴史を振り返ると、元来人間は、ばかばかしく長い計算をひたすら高速にやるということには向いていないので、美しく解ける種類の問題に注力してきた。美しいものにばかり目が向いていたため、美を志向しない数学がありうるということがなかなか意識されることがなかった。しかし近年、コンピュータで力技で解けるようになってきたため、美しくない問題の存在に改めて気づかされた、というのが実際ではないか。

数年前、Googleが、ルービックキューブの面をそろえる最短の手を発表して話題になったが、やはり、従来の意味では美しくない解法であった。

 

美術の世界では、実はデュシャンの「泉」は、展覧会での展示が拒否された。美の規範に合わないのだ。しかし、やがて第2、第3のデュシャンで美術は溢れて、それらが事実化し、美術の一部となっていった。何を美術かと呼ぶかの境界が再定義されていったのだった。数学でも同じことが起きているのだ。

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※「UnvaoidableReduceできる集合」見つかれば、4色問題が解決される理由

背理法4色問題が証明できる。反例として5色以上必要な地図があると仮に想定してみる。そのような反例の中で最小の地図について考える(国の数が一番少ないもの。サイズNとしよう)

UnvaoidableReduceできる集合の存在が証明できたとすると、この最小反例もReduceできる国を含む(Unavaoidableなので必ず含まれる)。その国(Aと呼ぼう)を取り除いて、1つサイズの小さい地図を考えると、それは4色で塗れるはずである(5色必要な反例は少なくともサイズN以上のはずなので)。さて、取り除いた国を復活させて、何色で塗るか考えると、新たな5色目を使うことなく4色でまかなえるはずである(AReduceできるので)。結局、最小反例のはずが、4色で塗り替えられてしまった。矛盾するので、5色以上必要な地図があるという仮定が誤り。どんな地図も4色で塗れる。

 

QED: The Strange Theory of Light and Matter

量子電磁気学についての一般向け書籍。この分野を今日あるような形へと作り上げてきた本人による解説。

なぜ光はガラスを通過したり反射したりするのだろうか?光は、通過か反射かどうやって「決める」のだろうか?日常的な現象に改めて目を向けて、説明を要する現象として取り上げてゆく。数式を用いずに経路積分の概念を紹介し、光と電子の不思議なふるまいに対し、新たな説明が与えられてゆく。後半では、光と電子の相互作用を図示した有名なファインマンダイアグラムも導入する。そして、原子核で起こっていることを、クォーク、弱い力、強い力などを用いて紹介する。

 

QED: The Strange Theory of Light and Matter (Princeton Science Library)

QED: The Strange Theory of Light and Matter (Princeton Science Library)

本書は、4回にわたる一般人向け講義を収録した本で、親しみやすい語り口になっている。日本語版も出ているが、英語の方で読んだ。

光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫)

 

著者のファインマンは、おそらく最も愛されている物理学者の一人だろう。彼は、「ファインマン物理学」という有名な教科書も書いている。むかし、電車の中で読んでいたら、たまたま隣に座った外国の人に、「それ僕も大学の時に読んでいたよ!」と話しかけられたことがある。聞けば、インド出身の工学者で、いまは日本で勤めているという。見ず知らずでも、「同じ本を好きな私たち」という連帯がすぐに生まれたのであった。

「おや、君もかい」

「ああ、僕もだよ」

車中で愛が芽生えるんである。

 

光は、なぜガラスを通過したり反射したりするのだろうか?なぜ屈折するのだろうか?次のような説明を聞いた人も多いと思う。

「光は、目的地に達するのに一番早いルートを通ろうとする性質がある。ガラスと空気では、実は光のスピードが違っていて、ガラスの中では遅くなってしまう。そこで、光はガラスを嫌って、ガラスの通り道が短めとなるルート選ぶ。屈折して多少周り道してでも、それが最短時間の経路だからだ。

反射についても同様。光は、反射する際に「入射角=反射角」となるように反射する。こういう経路を通ると、最短ルート、すなわち最短時間でゴールに達するからだ。仮に入射角反射角の経路を通ろうとすると、時間をロスしてしまうからね」

 

初めてこの話を聞いた時は、屈折・反射という現象が、時間の最短化という原理(フェルマーの原理)で説明されることに意外な思いがした。しかし事実なのだから、「そういうもの」として受け入れるしかない、一種の公理に近いようなものとして聞いていた。

それでもなお、時間最短化のフェルマーの原理は、腑に落ちない説明である。なぜ、光は、数ある経路の中で「ゴールへはこの経路が最短だ」なんて知っているのだろうか?そもそも、ゴールがあらかじめ分かっているような目的論的な語り方は変ではないか?本来は光は、物理法則に従って時間の経過とともに一歩一歩前進し、結果的にたどり着いた場所を人間が便宜的にゴールと呼んでいるに過ぎないのではなかったのか。

 

フェルマーの原理は事実だけれども、不思議であることに変わりないのだ。その不思議さに着目して描かれた小説もある。たとえば、最近映画化されたテッドチャンのSF小説「あたなの人生の物語」(映画題名「メッセージ」)は、地球外生命体が使う未知の言語についての話である。

われわれは、ニュートン方式で世界を見ているが(=時間が進行してゆく舞台としての世界)、フェルマー方式で世界を認識している生き物がいてもいいはずだ。彼らには時間の進行という概念はない。未来という終着駅はそこあって既に見えている。きっと彼らのものの考え方は人間とだいぶ違うだろう。彼らの話す言葉は、われわれに意味を成すのだろうか?

 

脱線が長くなったが、本書「QED」では、「時間を最小化する経路が実現される」という事実を、さらに原理的な観点から解明してゆく。

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この人がファインマンです。

 

ファインマン経路積分による説明は明快で、光が最短経路を「知っている」のは、全ての経路を試しているからだ、というものだ。「入射角反射角」であるようないびつな経路も含めて、光は全部通っていると考える。

これは狂った考えに見えるが、実験で実証できる。回折格子というものを使う。ガラスの反射を例にとると、反射光とは無関係に思える位置のガラスについても、実際に光が通っていることを確認できるのだ。ガラスに細かい縞々の傷をつけてトリックを作るのだが、その工夫もきれいな理屈にもとづいているので、興味ある人は本書にあたってほしい。

 

では、光が全部の経路を試したとして、その中からどうやって最短経路を選び出しているのか。光は、どうやって最小化問題を解くのか。

光の振動と干渉が効いてくるのである。互いに少しずれた2本の軌道を比較してみよう。経路の違いに応じて、ゴールに着くタイミングも違うはずだから、振動のタイミングも食い違ってくる。上手くそろっていないので、互いに打ち消し合ってしまう(例えば、振動の山と谷が相殺するイメージ)。結局、2本の軌道は、最終的には相殺して人間に観測されることはない。

しかし、一つ特権的な経路がある。時間最短となる経路だ。高校の数学を思い出してもらうといいのだが、何かを最小とするような位置とは、微分がゼロとなる位置、つまり変化が無いことを意味する。少し位置がずれたところで、結果はほとんど変わらないのだ。直観的には、山の頂上(微分ゼロ)が、なだらかなことに相当する。反射の例に戻れば、隣の軌道との時間のずれがほとんど無いため、振動が打ち消しあわない。時間最短となる付近の経路の束は、タイミングがそろっているので、むしろ強化される。そして光の経路として私たちの前に現れる。

結局、微分積分が、世界で何が実現され、何が実現されないかを決めている。

 

以上が、本書の前半だ。経路積分による説明の射程は広い。反射や屈折だけにとどまらず、そもそも光はまっすぐ進むのか、Yesならばそれは何故か、量子力学的なミクロな世界では軌道の概念が成立しないというが、なぜ成立しないのか、といったことも統一的に説明されてゆく。

 

後半では電子・陽子の移動、陽子の散乱と吸収といった単純なルールによって、いかに世界の複雑性が作られていくかが説明される。後半の書き方は、私にはちょっと駆け足ぎみに感じられたが、情報密度が高い。

光が一カ所に集まってレーザーとなる一方、電子はそうならずにバラける(排他原理)。電子は集団で固まって行動できないので、電子がいくつもある場合は、原子核の近くを回る軌道、少し離れた軌道、さらに離れた軌道・・・といった構造が生まれ、やがて原子・物質の多様性につながる。将棋のようなもので、ルールは簡単でも、盤面で展開される棋譜は無限で、人を魅了する。

 

本書、というかファインマンのどの著作にも共通するのだが、その魅力を挙げると

  • 素朴で根源的な問いを取り上げ、
  • できるだけ少ない前提知識から出発し、
  • ごまかしやジャーゴンで煙にまくことを排し、
  • 明晰な語り口とフランクな態度で、
  • 斬新なアイデアを持って立ち向かう。

といったところになると思う。

良い本です。

ニーチェをドイツ語で読む

ニーチェを原文読解し、読者を彼の著作・考えに触れさせようという本。ディオニソス的、超人、永劫回帰などの代表的キーワードを取り上げる。それが述べられる箇所を抜粋して読み進み、内容についての時代背景や、ニーチェの生い立ち、その思索を補足してゆく。

ニーチェをドイツ語で読む

ニーチェをドイツ語で読む

 

 もうずいぶん前、大学生のときに「ツァラトゥストラ」を読んだことがある(たしか、前半だけ)。おじさんが山にこもって、その後、下山してあちこちを訪ねて、大地の轟を聞いたり、道化者を見たり、俗っぽい人たちにうんざりしたり、といった話が童話みたいな体裁でずっと続き、「まじか・・・」と困ったおぼえがある。

有名な本だからといって有難がる必要なしと切り捨てるのか、いや、素晴らしさを感じ取れないこちら側に受信機としての不具合があるのか、決めかねたのだ。

お前が悪いのか、オレが悪いのか。

 

今回本書を手に取って久々にニーチェに接した。ニーチェは、その内容と同等以上にその語り口が特徴なので、概説に加えて原文と和訳と合わせて読み進めてゆくのは、ニーチェへの適切な近づき方と感じた。

この本はドイツ語学習書とニーチェ解説書の境界に位置していて、変に哲学オタク過ぎず、でも当時の文化状況など広い視点からの解説も簡単に載っており、便利な本だ。ニーチェのドイツ語は雅語も使われていて倒置が多く、あまり読みやすくはないが、文章は恰好いいものが多い。独検2級くらいの人から読める思う。

良書とまでは言えないかも知れないが、自分がどういう姿勢でニーチェに接すればいいのか(悪いのは、お前か俺か問題)決まったという意味では、よかった。

 

しかしその話の前に、まずニーチェの人気や影響を振り返っておこう。

日本では、ニーチェ関連書がコンビニで売られることもあったり、第二次世界大戦時はナチスが引用して喧伝したりと、マーケティング的に盛んに活用されるという意味では非常にポピュラーな哲学者である。一方、そのようなマスの騒がしさから目を転じて、もっとひっそりとした個々の文化の方を見ても、ニーチェの影響は根を伸ばしているようなのだ。

  • ミラン・クンデラに「存在の耐えられな軽さ」という小説があるが、これは永劫回帰を巡る語りから始まる。「永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた」
  • 「月に吠える」(1917年)は、詩人・萩原朔太郎の代表作として有名だ。本書で知ったが、この題名は、「ツァラトゥストラ」の中で犬が月に吠えだす場面に由来するようだ。
  • ブコメ・マンガ「ツルモク独身寮」では、田畑先輩という人が図書館の受付の女性に一目ぼれするくだりがあるのだが、彼女の気を引こうと難しめの本を借りまくる。借りるのは、やはりニーチェ本である。

影響はあなどれないのだ。 

ニーチェが(夏目漱石ではありません)

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↓こういう話を書いて(犬、月に吠える)

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萩原朔太郎が影響を受ける

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さて、彼の作品をどういう態度で読めばよいかという話だが、まず、彼の作品は理解しようと思わなくてもよい。少なくとも、論説文を読むときの明晰さとか、「これは、わたし自身の話だ」という共感を持てなくとも、気にする必要はない。3つ理由がある。

そもそも、ニーチェはあまり説明をしていない。超人や永劫回帰といったキーワードに注目しても、まとまった説明があるわけではなく、登場キャラクターの言葉の断片に含まれているといった具合である。語り口も、童話や詩に近い。

この点は、彼の大学の師や同僚から批判的に受け止められたようだ。ニーチェは作品を師に見せて何度か感想をたずねるのだが、返答らしい返答はない。師は直接否定的コメントをするのを避けたが、日記には「才気走った酔っ払い」と書いていた。そして、ニーチェの後輩にあたる学者は公然と批判をし、やがて彼のアカデミックなポストを奪い取ってゆく形になる。

ふたつめに、彼の著書が、キリスト教からの脱却と古代ギリシャへの憧れで彩られていることが挙げられる。これは、キリスト教の社会的圧力を感じている特定の時代・地域の人々には響くテーマだが、わたしのような者には遠いことのように感じられた。脱却すべきキリスト教にまだ囚われていないのですけど・・・と思って、逆にさみしくなる始末だ。

さらに、前提知識のクラシカルさ。「ツァラトゥストラ」のストーリーは、キリスト教福音書のパロディである。だから、新約聖書を知っている方が楽しめるだろう。このくらいならまだ良いが、本書で抜粋されている「悲劇の誕生」の15行ほどの短い一節を見ても、実はショーペンハウエルや、シラーの詩句を踏まえた言葉になっているとのことだ。一般の人がそれらを1つ1つを認識しながら読むというのは、無茶と言うべきだろう。

 

では現代の我々にとって、彼の作品は魅力があるのだろうか。

論説ではないということの裏返しでもあるが、ポエティックな表現や箴言集の切れ味が、確かにある。語り口が魅力なのだ。少し引用しよう。

Der Mensch ist nicht mehr Künstler, er ist Kunstwerk geworden.

人間はもはや芸術家ではない。芸術作品となったのだ。

 

Was groß ist an Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist.

人間における偉大なところ、それは、人間が橋であって目的ではないということだ。

 

Ein Buch für Alle und Keinen

すべての人のための、そして誰のためのものでもない書物

 

Von allem Geschriebenen liebe ich nur Das, was Einer mit seinem Blute schreibt. Schreibe mit Blut

すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血で書け。

 

Verbrennen musst du dich wollen in deiner eignen Flamme: wie wolltest du neu werden, wenn du nicht erst Asche geworden bist!

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

 

「芸術家ではない、芸術作品となったのだ」という少し謎めいた感じはとても彼らしいし、「血で書け」という命令形が持つ気骨も、彼らしい。

上には引用してないが、永劫回帰を説明するときは、蜘蛛や木々のあいだの月光を例に挙げており、絵画的で美しい。それはレトリックの力だが、事実、詩作は彼のライフワークで、14歳の時点で自分を詩人としての第3期として位置づけ、生涯の詩作は400篇にのぼるそうだ。

 

とは言え、それだけで人気を説明しているとは思えない。もっと理由があるはずだが、素朴に言えば、彼が提起した考えが刺激的だからだと思う。

永劫回帰      わたしが経験したことが、いつか再度わたしによって全く同じように経験され、それどころか、何度も何度も同一の出来事が再帰する

この考えは狂った神話のように見える。しかし、それが成立しないのはなぜか(or 成立するのはなぜか)、成立する世界があっとしたら、そこで人々はどのように生き、感じているのか。そのような仮想に考えをめぐらせて明解に答えられるとしたら、それは世界に対する深い理解であるに違いない。実際に、永劫回帰の考えに触発された例は多い。

いくつか見てみよう。

 

物理をかじった人で時々いるのが、ポアンカレ再帰定理を持ち出す人だ。力学系のどの時点の状態をとってきたとしても、将来またそれとものすごく近い状態(近傍)へ戻ってくるというのだ。もっとも、この定理はエネルギーの出入りの無い系の話だから、地球上の人間の出来事に当てはめるべきではない。

ミラン・クンデラは、「存在の耐えられない軽さ」で、永劫回帰は無い、という立場で語ってみせた。物事は一度限りで過ぎ去ってゆく。それが、ある種の軽さを世界に与えるという。残酷なギロチンさえ、もう過ぎ去ったフランス革命という一回性を思うと、夕日へのノスタルジーに似た感情を覚え、優しく和解できる。それは倒錯のはずだが、倒錯を許す軽さが生まれているのだ。

逆に 「不滅」では、永劫回帰があるとすると、どのような見方が可能かを試している。まず、個々の人間よりも、あの人らしいと思わせる仕草の方が、実は基礎的単位であると考える。そして、人間は、いくつかの仕草のレパートリーとして構成されているはずだ。仕草は、再現されうる。だから、200年前にゲーテの妻がおこなった仕草が、そっくりそのまま、現在の或る人の動作として再帰するのだ。そこに時空を超えた不滅を見る。

ボルヘスは、プラトンへ共感を示すことで、別の形で不滅を述べた。「この中庭でたわむれている猫は五百年前に跳びはね、ずるく立ちまわった猫と同一のものだ」「ライオン自体というのは個体の無限の交代を通して保たれており、個々のライオンの生と死が不死の姿を形作っているのである」

また、彼はもっと内面的なことも語っている。一人の人間の心の中には、ある瞬間ある状態がある。別のときにまったく同じ状態に陥ったら、それはもう反復された時間と言っていいのではないだろうか。

 

こういった言説を読むと、わたしはなんとなくEPRの話を思い出す。

アインシュタインらによって提起されたEPRパラドックスという思考実験がある。量子力学の不完全性を衝いたものとして提起され、量子力学への挑戦状のようなものである。そして、物理学者たちはその挑戦に応答しようと挑んでいった。歴史を見てみると、それらの試みの中で出てきた発見が、量子力学を本当に新しいステージへと連れ出し、発展を促したのだった。結果的に、アインシュタインの論文は間違っていたのだが、多くの理論を生む多産な母体となった。正しいが重要でない論文に比べ、間違っているが重要な論文の方が、人類にとって意義深いだろう。物理学者の清水明氏は、それをクリエイティブ・エラーと呼んでいた。

ニーチェ永劫回帰という考えは、EPRパラドックスに似ている。問いへ答えるよう人々を刺激し、様々な思索へつながっていくのだ。

 

最後に、もうひとこと。「ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた」とあるように、彼の言葉づかいは謎めいている。それは欠点でもあるし、強味ともなっている。謎めいているがゆえに、「何かがある」と予感させるのだ。

例えば、新しい科学的な成果が出てきたとき、素晴らしいと喜ぶ一方で、でも私が知りたかったのはそこではない、と思う人も多いだろう。これまでの知の体系からからこぼれてしまっている側面、文学や音楽が写し取ろうとしている何か、そういった生の断面を見たいのだと。しかし、それを名指す言葉がまだ無い、という感じがする。新しい言葉を作ってそれを指し示してみるのだが、その何かは絶えず逃げ去る。やがて言葉は何も指していなかったことに気づき、次の言葉を作りはじめる。人は追いかけっこをしながら、バズワードを作り続けずにはいられないようなのだ。

永劫回帰ディオニソス、超人といった語彙もまた、その見えないものが入っていると人々が期待する容器として機能している。謎めいているぶん、何かが入っていると思えてくるのだ。

バズワードと違う点は、一過性ではないという点だ。ペットボトルではなく、エミール・ガレのガラス容器みたいとでも言えばいいだろうか。使ったあと打ち捨てられる器ではなく、その容器自体が怪しく光っており、不思議な色彩と影が視線を引きつける。人々はその器を使い続けることになる。絶えずそこへ新たな謎を投影して、意味を注ぎ続けたくなるような、そんな不思議な入れ物らしい。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

教皇秘書へと上りつめていたポッジョは、教皇の失脚によって職を失い放浪の身となった。次に彼が情熱を傾けることになったのは、ヨーロッパ各地に死蔵されている古代ギリシャ・ローマ時代の知を綴った写本の発掘であった。彼はブックハンターとなった。

やがて、原子論の書「物の本質について」(ルクレティウス)が発見される。      我々は原子の離合集散だ、だから死後の世界は虚妄だ、地球の他の星にも我々の土地と同じように山河がある     死後の救済という観念を通して人々を規範づけていたキリスト教社会の中に、異質な世界観が持ち込まれる。宗教支配が徐々に崩れてはじめて、文化総体におけるシフトチェンジが起こりつつあった。

いかにして古代の原子論がいったん死に、15世紀の時を経て復活し、ルネサンスの土台を準備したかを示す歴史物語。2012年ピューリッツアー賞受賞。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

  • 作者: スティーヴングリーンブラット,Stephen Greenblatt,河野純治
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2012/11/01
  • メディア: 単行本
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 ルネサンスと聞いて思いだすのは、高校の教科書に出てきたときに、とにかくピンとこなかったということである。

「古典古代の文化を復興しようとする文化運動である」と言われても、So what!?と言い返したくなりますね。古典文化というのは、パンテオン神殿の円柱とか、筋肉隆々のギリシャ彫刻とか、ああいうのだっけ。たしかに、おどろおどろしいゴシック建築とは雰囲気が違うけど、千数百年ぶりに昔の文物を愛でたところで、だからなんなんだ。重要なのか?

技術進歩の時代に生きる我々には「昔の方が優れている」という考えが馴染まないのだ。「昔の美術もなかなか味があっていいねぇ」という程度の趣味的視線にとどまらず、「過去は今よりも進んでいて、その発見が現在を変えてゆく」のがルネサンスらしいのだが、そんな不思議なことってあるんだろうか。

 

事実、古代ギリシャ時代は優れていた。紀元前200年頃までには、既に数々の知的達成が遂げられていた。図書館の設立、数学の開花、原子論や地動説の仮説提唱、地球の円周距離の計算、宗教の多様性を許す寛容。

しかし、その後これらは順調に蓄積され発展してゆくのではなく、むしろ失われてしまった。

 

本書では、4世紀のキリスト教国教化に、大きなターニングポイントを見ている。「死後の世界があり、永遠の苦しみに陥らないためには、神に救いを求めよ」という世界観、教義にそぐわない言論への抑圧、開かれた図書館を維持する動機づけの喪失、異教徒や非正統と見なされたキリスト教徒への不寛容。

これらは知の累積的発展という点からは、障害となるものばかりで、ギリシャの成果の多くがリセットされた。

アレクサンドリアの知的エリートだったヒュパティアが、群衆によってリンチの末に殺害される顛末は、一つの文化の終わりを象徴するようだ。

 

時は流れて15世紀、スペイン、フランス、イタリアは、それぞれ異なる教皇推しており、カトリック(普遍)という題目を台無しにしていた。いっしょに集まって今後の方向性を話し合おう!というコンスタンツ公会議も、話がまとまるわけはなく、進歩派のヤン・フス、ヒエロニムスらは死刑、ローマ教皇は牢屋行き、教皇秘書だったポッジョも失業の憂き目にあうのだった。

そして、ポッジョはブックハンターとなった。すこし前から、古典時代の書が再発見されはじめ、ブックハントブームが起こりつつあったのだ。

 

過去にはどんな凄いものがあったのだろうか。

「過去は現在よりも偉大だった」という概念はサブカルチャーでしばしば描かれてきた。

  • 北斗の拳 核戦争によって文明が滅び、今は荒野で荒くれ者たちが戦っている世の中
  • 風の谷のナウシカ 火の7日間で文明は滅び、今は毒を出す森におびえつつ、わずかに残された昔の文明の利器(飛行機とか)を大事に使いながら、こじんまりと谷で暮らす

 本書との対応を考えると、災難でリセットされてしまったあとの世界で(=キリスト教国教化以後の中世で)、わずかに残された文明の利器を求めつつ(=ギリシャの古書を読みつつ)、巨神兵(=過去の凄い知)で一発逆転を狙うというわけである。

そんなわけで、ルネサンスを、ナウシカケンシロウの物語と重ねると、親近感が湧いてくるのであった。ちなみに、天空の城ラピュタも同様に当てはめ可能だな。

 この「ルネサンス」=「ハルマゲドンからのスタジオジブリ」という見立てが、それでいいのかと突っ込みが入りそうだが、次へ進もう。

 

あとはエピローグのようなものである。原子論の書が発見され、少しずつ人々に広まっていった。最初は怖々したささやき声で。やがて、もっとはっきりした口調で。

  • トマス・モアは、ルクレティウスを参照しながら、ユートピアという語を創案した。原子論は来世を否認するから、「今を生きよ」という肯定観が基調となるのだ。もっとも、彼は「それでも死後の世界は存在する」と述べて、キリスト教との折衷案を提示するのだが。死後の世界を否定するにはまだ時代が危険すぎた。
  • マキャベリは、ルクレティウスを筆写していたことが確かめられている。
  • シェイクスピアは、愛読していたモンテーニュを経由してルクレティウスを知っていたはずである。
  • ピサ大学イエズス会の修道士は「原子からは何も生じない(・・・)はじめに神がすべてをお造りになった」と原子論への反論を毎日の祈りに組み込んだ。しかし、これは逆に、一般への非キリスト教的世界観の広まりを感じさせる。
  • ボッティチェリの「春」という有名な絵がある。これがルクレティウスからの一場面を描いた絵だというのは、初めて知った。改めて見てみれば、それまでの宗教画とはだいぶ違う。生を謳歌している。

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ルクレティウスの現代性には、はっとさせられる。

宇宙は原子と真空から成るという理解は冷たい虚無感をもたらすと思うかもしれない。

ニュートンが虹を光学的に説明したとき、19世紀の詩人キーツは「虹の持つ詩情を破壊した」と嘆いたのであった。

ルクレティウスは、その反対だと言う。星も昆虫も水たまりも人の体も、同じ原子から出来ていているという認識は、私たちを驚かせる。人間が世界の中心だとか、神だとか余計なものを持ち出す必要は無い。とほうもない数の原子の運動と衝突が、このような多様な事物を成立させているということへの驚異の念、平等さの感覚が、私たちを自由にする。

紀元前の時点で、科学がもたらす冷淡さへの懸念と、それへの応答という形で議論がされているのだ。その頃、日本は弥生時代なのだが。

 

巨神兵こんな感じだったと思うが、あってるのか。

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Moonwalking with Einstein

科学ライターの著者が、ひょんなことから全米記憶力コンテストに参加することになった。そもそも記憶力は、生まれつきではなく、鍛えられる力なのだろうか。今日われわれは、紙や電子メディアに気軽にメモを残すことで、安心して忘れることができる。記録が手軽なものでなかった昔、世界=覚えていることの全てだった頃、人々にとって世界はどのように映っていたのだろうか。

いくつかの疑問を胸に、自身をトレーニングし、記憶の多様な側面を学ぶ旅が始まった。体験型ルポタージュの好著。

Moonwalking with Einstein: The Art and Science of Remembering Everything

Moonwalking with Einstein: The Art and Science of Remembering Everything

 

  

物忘れが激しい。何かを検索しようとしてGoogleのページへ行った時には、何を検索しようとしていたのかが思い出せない。

それはまだいいほうだ。風呂のエピソードはもう少し重度な感じがする。まず、お風呂に入ってる状況を想像してほしい。そこでハタと行き止まる。さて、私は既に体を洗ったのだっけ、それともまだこれからだろうか。そこで、自分の体を触ってみる。「けっこう、つるつるしてるから、これは体を洗ったに違いない。きっとそうだ」といった推察に頼ることになる。

これはもう過去の記憶ではなく、現在からの推論である。

 

そんなわけで、自分の記憶に一抹の不安がよぎる私です。記憶力の回復を期待しつつ、そして記憶にまつわる知の全般について知りたくこの本を手にとった次第です。

 

英語で読みましたが、邦訳も出ています。

 ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由

 題名がちょっと俗っぽいハウツー本のようになっていて、そこはいま一つなのですが。また、TEDに著者のスピーチが出てまして、そちらを見てみて、自分にとって面白そうか試してみるのも手です。

ちなみに、原著はアメリカで好評を博したようで、映画化が決定したとのことです。

 

体験型ルポは、自らが試し、結果に戸惑い、ときに驚いてというライブ感が魅力ですが、この本はそれに加えて、出会った人々の人生の断片を切り取った掌編小説のようでもあり、関連文献を調査して学んだレビュー報告のようでもあり、多彩な切り口から記憶の全体像へと迫ろうとしている。

 

 記憶の鍵は、つまるところ「Bakerからbakerへ」という標語にまとめられそうだ。

会話の中でベイカーさん(Baker)という名前を出してみて、しばらくしてから相手が名前を覚えているか尋ねてみると、けっこうな割合の人が失念している。一方で、パン屋さん(baker)と言っておいて、記憶をテストすると、はるかに高い割合で記憶に残っている。

何が違いをもたらしているのだろうか?単語の長さも、発音も、綴づりも同じであり(大文字・小文字の違いをのぞいて)、情報量は等しいはずなのに。

ベイカーさんといったときに、その人物像は不定でイメージが難しい。しかし、パン屋と聞いたときには、さまざまなイメージ・五感と結びついている。お店にパンがあり、恐らく白い帽子をかぶっていて、パンを焼いた時のいい匂いもしているかもしれない。五感・特にイメージと共起する言葉は、それらがとっかかりになって、記憶しやすいようなのだ。

 

あたりまえの原則だが、その含意は広い。

例えば、共感覚者に異常な記憶力を持つ人がいることが理解できる。イメージが伴っているからだ(数字の27を見ると、とげとげしたテクスチャと茶色が見えるとか)。

共感覚者のばあいはイメージの共起が勝手に起こってしまうが、通常の人でもそれを自覚的に行えば記憶に役立てることが可能だ。それが世で記憶術と呼ばれているものに相当する。

古代に目を向ければ、書いて記憶を外部化するという習慣はなかった。すべてを覚えなければならない。記録に頼らず、学問や文学を開花させたのは驚異に思えるが、当時記憶術が広く用いられていたことが紹介される。物事を覚えて頭に入れることは、知識人に期待される当然の能力として価値を置かれていたことがわかる。暗記への軽蔑という考えは無かった。

また、古代ギリシャと言えば、ホメロスの口承文学を思い浮かべる人も多いだろう。これらの作品は、「バラ色の指をした夜明け(rosy fingered dawn)」といった類の不思議な比喩表現で溢れていることが知られている。これらの奇妙な定型表現については、記憶に頼った口承において、イメージを結びつけて記憶を軽減するため、と明快な仮説が与えられる。

OKプラトーの話も心に残った。記憶コンテストで優勝するには、「ちょっと得意」では足りない。「ものすごく得意」でなければならない。サンデープレイヤーは、アスリートに変貌しなければならない。練習をすれば上達するが、しばらくすると成長曲線は飽和して、横ばいになってしまう。この平地(OKプラトー)をどうやって超えていくか。著者の調査と実地訓練は、地に足がついている。

一方、記憶術の悪用とおぼしきケースにも著者は触れている。記憶術を用いたコンテストの競技者であり、トレーニングコースのインストラクターだった人物が、後年「共感覚者のサヴァン」としてメディアに登場し、素晴らしい記憶力を披露して脚光を浴びる。バロン・コーエン(発達心理学)、ラマチャンドラン(神経科医)らそうそうたる学者がだまされるさまは、この分野のあやうさも感じさせる。

 

本書を通して感じられるのは「内部記憶から外部記憶へ」という歴史の大きな流れだ。

大事なものは外部に在るから私はもう覚えなくてもよいという現況は、一つ一つに注意を払ってイメージして内面化するという作法をすたれさせてゆく。世界の事物を次々とザッピングして通り過ぎてゆくという態度へと社会を傾けるが、そのような現代を批判的に振り返るきっかけを与えてくれる。

ちなみに、表題の「アインシュタインムーンウォーク」は、著者にとってはトランプのスペードの4、ハートのキング、ダイヤの3の3枚組だそうです。

 

ムーウォークするアインシュタイン。こんな感じか

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