一四一七年、その一冊がすべてを変えた
教皇秘書へと上りつめていたポッジョは、教皇の失脚によって職を失い放浪の身となった。次に彼が情熱を傾けることになったのは、ヨーロッパ各地に死蔵されている古代ギリシャ・ローマ時代の知を綴った写本の発掘であった。彼はブックハンターとなった。
やがて、原子論の書「物の本質について」(ルクレティウス)が発見される。 我々は原子の離合集散だ、だから死後の世界は虚妄だ、地球の他の星にも我々の土地と同じように山河がある 死後の救済という観念を通して人々を規範づけていたキリスト教社会の中に、異質な世界観が持ち込まれる。宗教支配が徐々に崩れてはじめて、文化総体におけるシフトチェンジが起こりつつあった。
いかにして古代の原子論がいったん死に、15世紀の時を経て復活し、ルネサンスの土台を準備したかを示す歴史物語。2012年ピューリッツアー賞受賞。
- 作者: スティーヴングリーンブラット,Stephen Greenblatt,河野純治
- 出版社/メーカー: 柏書房
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: 単行本
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ルネサンスと聞いて思いだすのは、高校の教科書に出てきたときに、とにかくピンとこなかったということである。
「古典古代の文化を復興しようとする文化運動である」と言われても、So what!?と言い返したくなりますね。古典文化というのは、パンテオン神殿の円柱とか、筋肉隆々のギリシャ彫刻とか、ああいうのだっけ。たしかに、おどろおどろしいゴシック建築とは雰囲気が違うけど、千数百年ぶりに昔の文物を愛でたところで、だからなんなんだ。重要なのか?
技術進歩の時代に生きる我々には「昔の方が優れている」という考えが馴染まないのだ。「昔の美術もなかなか味があっていいねぇ」という程度の趣味的視線にとどまらず、「過去は今よりも進んでいて、その発見が現在を変えてゆく」のがルネサンスらしいのだが、そんな不思議なことってあるんだろうか。
事実、古代ギリシャ時代は優れていた。紀元前200年頃までには、既に数々の知的達成が遂げられていた。図書館の設立、数学の開花、原子論や地動説の仮説提唱、地球の円周距離の計算、宗教の多様性を許す寛容。
しかし、その後これらは順調に蓄積され発展してゆくのではなく、むしろ失われてしまった。
本書では、4世紀のキリスト教国教化に、大きなターニングポイントを見ている。「死後の世界があり、永遠の苦しみに陥らないためには、神に救いを求めよ」という世界観、教義にそぐわない言論への抑圧、開かれた図書館を維持する動機づけの喪失、異教徒や非正統と見なされたキリスト教徒への不寛容。
これらは知の累積的発展という点からは、障害となるものばかりで、ギリシャの成果の多くがリセットされた。
アレクサンドリアの知的エリートだったヒュパティアが、群衆によってリンチの末に殺害される顛末は、一つの文化の終わりを象徴するようだ。
時は流れて15世紀、スペイン、フランス、イタリアは、それぞれ異なる教皇を推しており、カトリック(普遍)という題目を台無しにしていた。いっしょに集まって今後の方向性を話し合おう!というコンスタンツ公会議も、話がまとまるわけはなく、進歩派のヤン・フス、ヒエロニムスらは死刑、ローマ教皇は牢屋行き、教皇秘書だったポッジョも失業の憂き目にあうのだった。
そして、ポッジョはブックハンターとなった。すこし前から、古典時代の書が再発見されはじめ、ブックハントブームが起こりつつあったのだ。
過去にはどんな凄いものがあったのだろうか。
「過去は現在よりも偉大だった」という概念はサブカルチャーでしばしば描かれてきた。
- 北斗の拳 核戦争によって文明が滅び、今は荒野で荒くれ者たちが戦っている世の中
- 風の谷のナウシカ 火の7日間で文明は滅び、今は毒を出す森におびえつつ、わずかに残された昔の文明の利器(飛行機とか)を大事に使いながら、こじんまりと谷で暮らす
本書との対応を考えると、災難でリセットされてしまったあとの世界で(=キリスト教国教化以後の中世で)、わずかに残された文明の利器を求めつつ(=ギリシャの古書を読みつつ)、巨神兵(=過去の凄い知)で一発逆転を狙うというわけである。
そんなわけで、ルネサンスを、ナウシカやケンシロウの物語と重ねると、親近感が湧いてくるのであった。ちなみに、天空の城ラピュタも同様に当てはめ可能だな。
この「ルネサンス」=「ハルマゲドンからのスタジオジブリ」という見立てが、それでいいのかと突っ込みが入りそうだが、次へ進もう。
あとはエピローグのようなものである。原子論の書が発見され、少しずつ人々に広まっていった。最初は怖々したささやき声で。やがて、もっとはっきりした口調で。
- トマス・モアは、ルクレティウスを参照しながら、ユートピアという語を創案した。原子論は来世を否認するから、「今を生きよ」という肯定観が基調となるのだ。もっとも、彼は「それでも死後の世界は存在する」と述べて、キリスト教との折衷案を提示するのだが。死後の世界を否定するにはまだ時代が危険すぎた。
- マキャベリは、ルクレティウスを筆写していたことが確かめられている。
- シェイクスピアは、愛読していたモンテーニュを経由してルクレティウスを知っていたはずである。
- ピサ大学イエズス会の修道士は「原子からは何も生じない(・・・)はじめに神がすべてをお造りになった」と原子論への反論を毎日の祈りに組み込んだ。しかし、これは逆に、一般への非キリスト教的世界観の広まりを感じさせる。
- ボッティチェリの「春」という有名な絵がある。これがルクレティウスからの一場面を描いた絵だというのは、初めて知った。改めて見てみれば、それまでの宗教画とはだいぶ違う。生を謳歌している。
ルクレティウスの現代性には、はっとさせられる。
宇宙は原子と真空から成るという理解は冷たい虚無感をもたらすと思うかもしれない。
ニュートンが虹を光学的に説明したとき、19世紀の詩人キーツは「虹の持つ詩情を破壊した」と嘆いたのであった。
ルクレティウスは、その反対だと言う。星も昆虫も水たまりも人の体も、同じ原子から出来ていているという認識は、私たちを驚かせる。人間が世界の中心だとか、神だとか余計なものを持ち出す必要は無い。とほうもない数の原子の運動と衝突が、このような多様な事物を成立させているということへの驚異の念、平等さの感覚が、私たちを自由にする。
紀元前の時点で、科学がもたらす冷淡さへの懸念と、それへの応答という形で議論がされているのだ。その頃、日本は弥生時代なのだが。
巨神兵こんな感じだったと思うが、あってるのか。