どくしょ絵日記

面白かった本を紹介します(お絵かき付き)

女たちよ!

 

女たちよ! (新潮文庫)

女たちよ! (新潮文庫)

 

伊丹十三の映画に「マルサの女」という名作がある。

脱税する者とそれを突き止めようとする国税庁捜査官のいたちごっこを描いたエンタテインメント作品だが、冒頭から引き込まれ、作り手がただ者でないことを感じる。ほんの短い会話から、男が常習的に悪事を働いており、インテリジェンスと活力にあふれた人物であることが手際よく暗示され、これから起きるであろう事件を予感させる。そして、中年男性をここまで魅力的な人物として描くのに成功した例は、なかなか見つからない。たしか「おおかみこどもの雨と雪」の細田守も好きな映画に挙げていたと思う。

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国税局員に対して逆にお金の貯め方を講釈する男、山崎努がクール

映画監督としての伊丹十三の素晴らしさに疑いはないが、彼の書いたエッセイは、なかなか手にとることがなかった。よく見かける紹介文に興味を惹かれなかったのだ。「本物志向のダンディズム。パスタといば、洋食屋の伸びたスパゲッティがあたり前だった時代にアルデンテにすべしと訴えた先進性」

アルデンテうんぬんといったタイプのうんちくには、時代を超えた見識は期待できない気がしたのだ。

 

しかし、読んでみたら、不安視していたものとは違い、良かったのである。さっさと手に取ってみるもんですな。

サラダ、卵焼きの食べ方、二日酔い、友人の俳優、車、蚊帳、ボーリングといった身辺の雑多なことについてのエッセイなのだが、読んで新鮮な感じを受ける。自分も初めて卵焼きを食べたとき、こういう居心地の悪さを感じてたなと記憶がよみがえり、物事への初心を思い出させるのだ。

われわれが気に留めず漫然と自動化した反応で済ましている事柄にも、伊丹は観察や自分の美感に照らし合わせた上での見解を述べるのだ。何が正論・本来の感覚だったか、それを思い出させてくれるのが、気持ちいい。1つ2つ引用しよう。

お料理学校というのは、私にはどうも納得のいかない存在である。料理をする場合、一番大切なのは舌である。味覚である。味覚というのは育ちと大変関係が深い。必ずしも美食ということではなく、漬物でも味噌汁でもいい。味の深いみ、というものを知っていることが先決問題である。

 

Eタイプ・ジャグアを、ほとんど注文しそうになったことがある。契約書に署名する一歩手前までいって踏みとどまった。

なぜ踏みとどまったかというと、Eタイプ・ジャグアは人間離れしすぎている、という気がしてきたのである。機械として、あまりできすぎてしまって、われわれ人間と気持ちがかよいあわない。むしろEタイプ・ジャグアにとって、運転手というのは邪魔っけな存在なのではあるまいか、そういう印象が次第に強くなってしまった。

 

ユーモラスなものもある。

散髪したての男というのは、なんとなく哀れを催させる存在である。()整然と刈り込まれてしまって、どこからどう見ても、床屋の美意識、床屋の解釈による、床屋の作品、という趣ではないか。もしこの作品に名をつけるなら「床屋の満足」ということにでもなろうか。

 

読了して浮かび上がってくるのは、森羅万象に関心と観察を向け、こだわりを持っていることである。コーヒーは豆から挽きましょう。

 

ところで「丁寧な暮らし」というものが、近年、期せずして批判の対象となったことがある。「コーヒーは豆から挽きましょう」、それを良しとする信仰が、負担となって人々を息苦しくする、というのだ。

丁寧な暮らしというワードが目的化し義務感となると、負への逆転を生む。「コーヒーは豆からひきましょう」という姿勢には、基底にコーヒーへの興味や愛がなければ長続きしない。丁寧な暮らしは、身辺の360度に対し、関心とフレッシュな目を持ち続けなければ苦痛に転じがちで、確かに無理があるのではないか?

しかし、伊丹は実に楽しそうに、挽きたてのコーヒーの香という常識や「良質のマッチ」について語るのだ。そう考えると、彼は、常識を語っているけど、それを語れるのは普通ではない、という感じもする。そんなこんなで、彼は変わったことを言っているわけではないのだが、全体として読むと凄みを感じる、というタイプの本である。