どくしょ絵日記

面白かった本を紹介します(お絵かき付き)

わたしの名は赤

 

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

 

 

16世紀末のオスマントルコ帝国、首都イスタンブールで細密画師が殺された。皇帝からの密命で装飾写本の制作に携わっていたことが、災いをもたらしたのだろうか。同じころ、青年カラがイスタンブールへ帰郷し、密命を監督している叔父の仕事を手伝うようになる。ほどなくして叔父の美貌の娘シュキレへの恋心を募らせるが、シュキレを得ようと企てるのは彼だけではなかった。

近世イスラム世界の人たちを、まさに今ここで息づいているように克明に描きながら、細密画師たちの心的衝突、東と西の文化の混交、伝統と新奇の葛藤を物語る。ノーベル文学賞受賞作家による代表作。

 

装飾画というのは、あの妙に平面的で、色はきれいでかわいいのだけど、実物らしさを欠いた絵のことです。なんだか自分から遠い世界だなあ、日本画にすら親近感を持てないのに、ましてや16世紀のイスタンブールってと思って、心細く読み始めました。が、良い方向に外れてました。

 

近年読んだ中でベスト3冊を挙げよ、と言われたらこの本を推したい。エンタテインメント性と知的な刺激を両立させている。絵を題材にして東西の文化衝突、新旧の転換点を描く知的な評論であり、登場人物の数奇な運命と生々しい言動を配した人間ドラマであり、16世紀末のオスマントルコ帝国時代に工房で働いていた人々の風俗を現代に蘇らせた小説でもある。

 

冒頭、死体が我々に話しかけてくる。そして、カラが語りかけ、シュキレが語りかけ、シュキレを巡る競争相手が語りかけ、犬が語りかけ、色彩の赤が語りかけ、子供が語りかけてくる。彼らがかわるがわる講談師役を引き受けているような具合で、一人称での語りにライブ感を感じる。

 

交代してゆく話者の語りを通して改めて思い知らされるのは、それぞれの人は、違った思惑と関心のもとで世界を生きているということだ。当たり前だが、カラがシュキレへメッセージを送るときは美女をめとりたいという点からであり、手紙の伝達を行う行商人の逞しい女は、それを第三の者へ回し読みさせて小銭をかせぐ抜け目なさを発揮し、シュキレの方は前夫との子供への愛で頭がいっぱいなのかもしれない。キャラクターたちは違う世界を見ているのだということ、理解しあっているわけでなくともゆるくかみ合って世界はずんずん進んでいくものだ、というあり方を示してくる。

多元性ということでいうと、一人の中でも単純化を拒むものがある。シュキレが寡婦としての自分の展望や弱々しくなってゆく父の将来に暗鬱としているかと思うと、家事をする奴隷女の一瞬の表情の苦々しさを見て、「オルハン(幼い息子)のうんちが臭かったのかしら」と思い、ごく日常的な思考が突如挿入されて、角度がかわる。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」のシーンで、悲劇の間際だというのに、とりとめのない考えがアンナの頭を巡っているという場面がある。深刻なときに深刻なことを考えるわけではないという真実に、読者は気づくわけだが、「わたしの名は赤」も、同じような落差や多声を感じた。

 

カラとシュキレの運命はともかく、密命の装飾写本制作に関わった絵師たちは、何を語っているのか?もちろん、細密画について語っているのである。

  • 見ること・見ないこと ルネサンス以降のヨーロッパ、あるいはそれに影響を受けた文化圏と、それ以外との違いは、「リアルに描く」という動機をそもそも持っているか?と言える。トルコの伝統絵画にそんな動機はない。かれら絵師は、馬を描くのに実物の馬を観察しながら描く、などいうことはしなかった。見るものは三流、見ないで描くのが正統なのだ。目に見えたものを描くのではなく、見るべきもの、理想としての馬、神が造形したであろう馬を再現するのが、正統なのだ。観察からの発見が優先されるのか、世界のモデルが優先されるのかという対比がここにある。
  • 個性・非個性 「私にはこう見えた」などいうのは重要でなくなる。なにせ、神が造形したであろう馬の再現なのだから、絵とは一つの正解へと近づいていくべきものだ。ゆえに、個性という言葉は意味をなさない。個人の絵柄とは、絵師の未熟さ、正解からのずれを意味した。弟子は正解への漸近法を師から学んで、似た絵を作ってゆく。個人としての署名はなく、絵師という集団、過去から現在へ受け継がれた集合的記憶が、彼らにとっての絵となる。
  • 物語のための絵 装飾写本という言葉から分かるように、絵は装飾するもの、何かの伝説を物語る文章に挿絵として添えられるものだ。したがって、単なる「リンゴの絵」というものは存在しない。物語に出てくるリンゴを表す絵があるだけだ。ただのリンゴという概念は、倒錯であり偶像崇拝(リンゴの絵自体をありがたがる)であった。
  • リアルの侵入 ここまで、「実物は見ないで理想としての絵を描く」という伝統的立場を書いたが、16世紀末には、すでにイスラム世界は西洋近代絵画の影響を受け始めていた。「リアルなんて、低俗だ」と言いながら、リアルな絵にも魅力を感じて当惑していた。ある者は伝統を守ろうとし、あるものはリアルに手を出そうとして、暗に陽に互いを批判した。しかし、どちらも気づいていたようだ。少し時代が進めば西洋絵画が主流となり、彼らが一生を賭けてきたイスラム絵画は忘れ去られるであろうことを。かといって、西洋絵画へあからさまに自ら突きむことも危険であった。反動的な宗教グループが、西洋派を襲撃し殺害していく事件が発生していた。そんな中で、彼らはどんな絵を描いていけばよかったのだろうか。

細密画を通して、絵師たちは、観察vsモデル、個性vs集団、物語vs物自体、というアクチュアルな問題群と格闘しているのであった。

 

なんだが、堅い話になったが、小説の最後では、勘違いにもとづいて、意外な人が意外なところで首をはねられたりして、しかし子供には好評だったりして、歴史というのは変化球というか変なエネルギーがあるな、と感心するのでした。

 

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こういうリンゴはNGなはず