どくしょ絵日記

面白かった本を紹介します(お絵かき付き)

ニーチェをドイツ語で読む

ニーチェを原文読解し、読者を彼の著作・考えに触れさせようという本。ディオニソス的、超人、永劫回帰などの代表的キーワードを取り上げる。それが述べられる箇所を抜粋して読み進み、内容についての時代背景や、ニーチェの生い立ち、その思索を補足してゆく。

ニーチェをドイツ語で読む

ニーチェをドイツ語で読む

 

 もうずいぶん前、大学生のときに「ツァラトゥストラ」を読んだことがある(たしか、前半だけ)。おじさんが山にこもって、その後、下山してあちこちを訪ねて、大地の轟を聞いたり、道化者を見たり、俗っぽい人たちにうんざりしたり、といった話が童話みたいな体裁でずっと続き、「まじか・・・」と困ったおぼえがある。

有名な本だからといって有難がる必要なしと切り捨てるのか、いや、素晴らしさを感じ取れないこちら側に受信機としての不具合があるのか、決めかねたのだ。

お前が悪いのか、オレが悪いのか。

 

今回本書を手に取って久々にニーチェに接した。ニーチェは、その内容と同等以上にその語り口が特徴なので、概説に加えて原文と和訳と合わせて読み進めてゆくのは、ニーチェへの適切な近づき方と感じた。

この本はドイツ語学習書とニーチェ解説書の境界に位置していて、変に哲学オタク過ぎず、でも当時の文化状況など広い視点からの解説も簡単に載っており、便利な本だ。ニーチェのドイツ語は雅語も使われていて倒置が多く、あまり読みやすくはないが、文章は恰好いいものが多い。独検2級くらいの人から読める思う。

良書とまでは言えないかも知れないが、自分がどういう姿勢でニーチェに接すればいいのか(悪いのは、お前か俺か問題)決まったという意味では、よかった。

 

しかしその話の前に、まずニーチェの人気や影響を振り返っておこう。

日本では、ニーチェ関連書がコンビニで売られることもあったり、第二次世界大戦時はナチスが引用して喧伝したりと、マーケティング的に盛んに活用されるという意味では非常にポピュラーな哲学者である。一方、そのようなマスの騒がしさから目を転じて、もっとひっそりとした個々の文化の方を見ても、ニーチェの影響は根を伸ばしているようなのだ。

  • ミラン・クンデラに「存在の耐えられな軽さ」という小説があるが、これは永劫回帰を巡る語りから始まる。「永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた」
  • 「月に吠える」(1917年)は、詩人・萩原朔太郎の代表作として有名だ。本書で知ったが、この題名は、「ツァラトゥストラ」の中で犬が月に吠えだす場面に由来するようだ。
  • ブコメ・マンガ「ツルモク独身寮」では、田畑先輩という人が図書館の受付の女性に一目ぼれするくだりがあるのだが、彼女の気を引こうと難しめの本を借りまくる。借りるのは、やはりニーチェ本である。

影響はあなどれないのだ。 

ニーチェが(夏目漱石ではありません)

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↓こういう話を書いて(犬、月に吠える)

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萩原朔太郎が影響を受ける

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さて、彼の作品をどういう態度で読めばよいかという話だが、まず、彼の作品は理解しようと思わなくてもよい。少なくとも、論説文を読むときの明晰さとか、「これは、わたし自身の話だ」という共感を持てなくとも、気にする必要はない。3つ理由がある。

そもそも、ニーチェはあまり説明をしていない。超人や永劫回帰といったキーワードに注目しても、まとまった説明があるわけではなく、登場キャラクターの言葉の断片に含まれているといった具合である。語り口も、童話や詩に近い。

この点は、彼の大学の師や同僚から批判的に受け止められたようだ。ニーチェは作品を師に見せて何度か感想をたずねるのだが、返答らしい返答はない。師は直接否定的コメントをするのを避けたが、日記には「才気走った酔っ払い」と書いていた。そして、ニーチェの後輩にあたる学者は公然と批判をし、やがて彼のアカデミックなポストを奪い取ってゆく形になる。

ふたつめに、彼の著書が、キリスト教からの脱却と古代ギリシャへの憧れで彩られていることが挙げられる。これは、キリスト教の社会的圧力を感じている特定の時代・地域の人々には響くテーマだが、わたしのような者には遠いことのように感じられた。脱却すべきキリスト教にまだ囚われていないのですけど・・・と思って、逆にさみしくなる始末だ。

さらに、前提知識のクラシカルさ。「ツァラトゥストラ」のストーリーは、キリスト教福音書のパロディである。だから、新約聖書を知っている方が楽しめるだろう。このくらいならまだ良いが、本書で抜粋されている「悲劇の誕生」の15行ほどの短い一節を見ても、実はショーペンハウエルや、シラーの詩句を踏まえた言葉になっているとのことだ。一般の人がそれらを1つ1つを認識しながら読むというのは、無茶と言うべきだろう。

 

では現代の我々にとって、彼の作品は魅力があるのだろうか。

論説ではないということの裏返しでもあるが、ポエティックな表現や箴言集の切れ味が、確かにある。語り口が魅力なのだ。少し引用しよう。

Der Mensch ist nicht mehr Künstler, er ist Kunstwerk geworden.

人間はもはや芸術家ではない。芸術作品となったのだ。

 

Was groß ist an Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist.

人間における偉大なところ、それは、人間が橋であって目的ではないということだ。

 

Ein Buch für Alle und Keinen

すべての人のための、そして誰のためのものでもない書物

 

Von allem Geschriebenen liebe ich nur Das, was Einer mit seinem Blute schreibt. Schreibe mit Blut

すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血で書け。

 

Verbrennen musst du dich wollen in deiner eignen Flamme: wie wolltest du neu werden, wenn du nicht erst Asche geworden bist!

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

 

「芸術家ではない、芸術作品となったのだ」という少し謎めいた感じはとても彼らしいし、「血で書け」という命令形が持つ気骨も、彼らしい。

上には引用してないが、永劫回帰を説明するときは、蜘蛛や木々のあいだの月光を例に挙げており、絵画的で美しい。それはレトリックの力だが、事実、詩作は彼のライフワークで、14歳の時点で自分を詩人としての第3期として位置づけ、生涯の詩作は400篇にのぼるそうだ。

 

とは言え、それだけで人気を説明しているとは思えない。もっと理由があるはずだが、素朴に言えば、彼が提起した考えが刺激的だからだと思う。

永劫回帰      わたしが経験したことが、いつか再度わたしによって全く同じように経験され、それどころか、何度も何度も同一の出来事が再帰する

この考えは狂った神話のように見える。しかし、それが成立しないのはなぜか(or 成立するのはなぜか)、成立する世界があっとしたら、そこで人々はどのように生き、感じているのか。そのような仮想に考えをめぐらせて明解に答えられるとしたら、それは世界に対する深い理解であるに違いない。実際に、永劫回帰の考えに触発された例は多い。

いくつか見てみよう。

 

物理をかじった人で時々いるのが、ポアンカレ再帰定理を持ち出す人だ。力学系のどの時点の状態をとってきたとしても、将来またそれとものすごく近い状態(近傍)へ戻ってくるというのだ。もっとも、この定理はエネルギーの出入りの無い系の話だから、地球上の人間の出来事に当てはめるべきではない。

ミラン・クンデラは、「存在の耐えられない軽さ」で、永劫回帰は無い、という立場で語ってみせた。物事は一度限りで過ぎ去ってゆく。それが、ある種の軽さを世界に与えるという。残酷なギロチンさえ、もう過ぎ去ったフランス革命という一回性を思うと、夕日へのノスタルジーに似た感情を覚え、優しく和解できる。それは倒錯のはずだが、倒錯を許す軽さが生まれているのだ。

逆に 「不滅」では、永劫回帰があるとすると、どのような見方が可能かを試している。まず、個々の人間よりも、あの人らしいと思わせる仕草の方が、実は基礎的単位であると考える。そして、人間は、いくつかの仕草のレパートリーとして構成されているはずだ。仕草は、再現されうる。だから、200年前にゲーテの妻がおこなった仕草が、そっくりそのまま、現在の或る人の動作として再帰するのだ。そこに時空を超えた不滅を見る。

ボルヘスは、プラトンへ共感を示すことで、別の形で不滅を述べた。「この中庭でたわむれている猫は五百年前に跳びはね、ずるく立ちまわった猫と同一のものだ」「ライオン自体というのは個体の無限の交代を通して保たれており、個々のライオンの生と死が不死の姿を形作っているのである」

また、彼はもっと内面的なことも語っている。一人の人間の心の中には、ある瞬間ある状態がある。別のときにまったく同じ状態に陥ったら、それはもう反復された時間と言っていいのではないだろうか。

 

こういった言説を読むと、わたしはなんとなくEPRの話を思い出す。

アインシュタインらによって提起されたEPRパラドックスという思考実験がある。量子力学の不完全性を衝いたものとして提起され、量子力学への挑戦状のようなものである。そして、物理学者たちはその挑戦に応答しようと挑んでいった。歴史を見てみると、それらの試みの中で出てきた発見が、量子力学を本当に新しいステージへと連れ出し、発展を促したのだった。結果的に、アインシュタインの論文は間違っていたのだが、多くの理論を生む多産な母体となった。正しいが重要でない論文に比べ、間違っているが重要な論文の方が、人類にとって意義深いだろう。物理学者の清水明氏は、それをクリエイティブ・エラーと呼んでいた。

ニーチェ永劫回帰という考えは、EPRパラドックスに似ている。問いへ答えるよう人々を刺激し、様々な思索へつながっていくのだ。

 

最後に、もうひとこと。「ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた」とあるように、彼の言葉づかいは謎めいている。それは欠点でもあるし、強味ともなっている。謎めいているがゆえに、「何かがある」と予感させるのだ。

例えば、新しい科学的な成果が出てきたとき、素晴らしいと喜ぶ一方で、でも私が知りたかったのはそこではない、と思う人も多いだろう。これまでの知の体系からからこぼれてしまっている側面、文学や音楽が写し取ろうとしている何か、そういった生の断面を見たいのだと。しかし、それを名指す言葉がまだ無い、という感じがする。新しい言葉を作ってそれを指し示してみるのだが、その何かは絶えず逃げ去る。やがて言葉は何も指していなかったことに気づき、次の言葉を作りはじめる。人は追いかけっこをしながら、バズワードを作り続けずにはいられないようなのだ。

永劫回帰ディオニソス、超人といった語彙もまた、その見えないものが入っていると人々が期待する容器として機能している。謎めいているぶん、何かが入っていると思えてくるのだ。

バズワードと違う点は、一過性ではないという点だ。ペットボトルではなく、エミール・ガレのガラス容器みたいとでも言えばいいだろうか。使ったあと打ち捨てられる器ではなく、その容器自体が怪しく光っており、不思議な色彩と影が視線を引きつける。人々はその器を使い続けることになる。絶えずそこへ新たな謎を投影して、意味を注ぎ続けたくなるような、そんな不思議な入れ物らしい。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

教皇秘書へと上りつめていたポッジョは、教皇の失脚によって職を失い放浪の身となった。次に彼が情熱を傾けることになったのは、ヨーロッパ各地に死蔵されている古代ギリシャ・ローマ時代の知を綴った写本の発掘であった。彼はブックハンターとなった。

やがて、原子論の書「物の本質について」(ルクレティウス)が発見される。      我々は原子の離合集散だ、だから死後の世界は虚妄だ、地球の他の星にも我々の土地と同じように山河がある     死後の救済という観念を通して人々を規範づけていたキリスト教社会の中に、異質な世界観が持ち込まれる。宗教支配が徐々に崩れてはじめて、文化総体におけるシフトチェンジが起こりつつあった。

いかにして古代の原子論がいったん死に、15世紀の時を経て復活し、ルネサンスの土台を準備したかを示す歴史物語。2012年ピューリッツアー賞受賞。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

  • 作者: スティーヴングリーンブラット,Stephen Greenblatt,河野純治
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2012/11/01
  • メディア: 単行本
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 ルネサンスと聞いて思いだすのは、高校の教科書に出てきたときに、とにかくピンとこなかったということである。

「古典古代の文化を復興しようとする文化運動である」と言われても、So what!?と言い返したくなりますね。古典文化というのは、パンテオン神殿の円柱とか、筋肉隆々のギリシャ彫刻とか、ああいうのだっけ。たしかに、おどろおどろしいゴシック建築とは雰囲気が違うけど、千数百年ぶりに昔の文物を愛でたところで、だからなんなんだ。重要なのか?

技術進歩の時代に生きる我々には「昔の方が優れている」という考えが馴染まないのだ。「昔の美術もなかなか味があっていいねぇ」という程度の趣味的視線にとどまらず、「過去は今よりも進んでいて、その発見が現在を変えてゆく」のがルネサンスらしいのだが、そんな不思議なことってあるんだろうか。

 

事実、古代ギリシャ時代は優れていた。紀元前200年頃までには、既に数々の知的達成が遂げられていた。図書館の設立、数学の開花、原子論や地動説の仮説提唱、地球の円周距離の計算、宗教の多様性を許す寛容。

しかし、その後これらは順調に蓄積され発展してゆくのではなく、むしろ失われてしまった。

 

本書では、4世紀のキリスト教国教化に、大きなターニングポイントを見ている。「死後の世界があり、永遠の苦しみに陥らないためには、神に救いを求めよ」という世界観、教義にそぐわない言論への抑圧、開かれた図書館を維持する動機づけの喪失、異教徒や非正統と見なされたキリスト教徒への不寛容。

これらは知の累積的発展という点からは、障害となるものばかりで、ギリシャの成果の多くがリセットされた。

アレクサンドリアの知的エリートだったヒュパティアが、群衆によってリンチの末に殺害される顛末は、一つの文化の終わりを象徴するようだ。

 

時は流れて15世紀、スペイン、フランス、イタリアは、それぞれ異なる教皇推しており、カトリック(普遍)という題目を台無しにしていた。いっしょに集まって今後の方向性を話し合おう!というコンスタンツ公会議も、話がまとまるわけはなく、進歩派のヤン・フス、ヒエロニムスらは死刑、ローマ教皇は牢屋行き、教皇秘書だったポッジョも失業の憂き目にあうのだった。

そして、ポッジョはブックハンターとなった。すこし前から、古典時代の書が再発見されはじめ、ブックハントブームが起こりつつあったのだ。

 

過去にはどんな凄いものがあったのだろうか。

「過去は現在よりも偉大だった」という概念はサブカルチャーでしばしば描かれてきた。

  • 北斗の拳 核戦争によって文明が滅び、今は荒野で荒くれ者たちが戦っている世の中
  • 風の谷のナウシカ 火の7日間で文明は滅び、今は毒を出す森におびえつつ、わずかに残された昔の文明の利器(飛行機とか)を大事に使いながら、こじんまりと谷で暮らす

 本書との対応を考えると、災難でリセットされてしまったあとの世界で(=キリスト教国教化以後の中世で)、わずかに残された文明の利器を求めつつ(=ギリシャの古書を読みつつ)、巨神兵(=過去の凄い知)で一発逆転を狙うというわけである。

そんなわけで、ルネサンスを、ナウシカケンシロウの物語と重ねると、親近感が湧いてくるのであった。ちなみに、天空の城ラピュタも同様に当てはめ可能だな。

 この「ルネサンス」=「ハルマゲドンからのスタジオジブリ」という見立てが、それでいいのかと突っ込みが入りそうだが、次へ進もう。

 

あとはエピローグのようなものである。原子論の書が発見され、少しずつ人々に広まっていった。最初は怖々したささやき声で。やがて、もっとはっきりした口調で。

  • トマス・モアは、ルクレティウスを参照しながら、ユートピアという語を創案した。原子論は来世を否認するから、「今を生きよ」という肯定観が基調となるのだ。もっとも、彼は「それでも死後の世界は存在する」と述べて、キリスト教との折衷案を提示するのだが。死後の世界を否定するにはまだ時代が危険すぎた。
  • マキャベリは、ルクレティウスを筆写していたことが確かめられている。
  • シェイクスピアは、愛読していたモンテーニュを経由してルクレティウスを知っていたはずである。
  • ピサ大学イエズス会の修道士は「原子からは何も生じない(・・・)はじめに神がすべてをお造りになった」と原子論への反論を毎日の祈りに組み込んだ。しかし、これは逆に、一般への非キリスト教的世界観の広まりを感じさせる。
  • ボッティチェリの「春」という有名な絵がある。これがルクレティウスからの一場面を描いた絵だというのは、初めて知った。改めて見てみれば、それまでの宗教画とはだいぶ違う。生を謳歌している。

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ルクレティウスの現代性には、はっとさせられる。

宇宙は原子と真空から成るという理解は冷たい虚無感をもたらすと思うかもしれない。

ニュートンが虹を光学的に説明したとき、19世紀の詩人キーツは「虹の持つ詩情を破壊した」と嘆いたのであった。

ルクレティウスは、その反対だと言う。星も昆虫も水たまりも人の体も、同じ原子から出来ていているという認識は、私たちを驚かせる。人間が世界の中心だとか、神だとか余計なものを持ち出す必要は無い。とほうもない数の原子の運動と衝突が、このような多様な事物を成立させているということへの驚異の念、平等さの感覚が、私たちを自由にする。

紀元前の時点で、科学がもたらす冷淡さへの懸念と、それへの応答という形で議論がされているのだ。その頃、日本は弥生時代なのだが。

 

巨神兵こんな感じだったと思うが、あってるのか。

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Moonwalking with Einstein

科学ライターの著者が、ひょんなことから全米記憶力コンテストに参加することになった。そもそも記憶力は、生まれつきではなく、鍛えられる力なのだろうか。今日われわれは、紙や電子メディアに気軽にメモを残すことで、安心して忘れることができる。記録が手軽なものでなかった昔、世界=覚えていることの全てだった頃、人々にとって世界はどのように映っていたのだろうか。

いくつかの疑問を胸に、自身をトレーニングし、記憶の多様な側面を学ぶ旅が始まった。体験型ルポタージュの好著。

Moonwalking with Einstein: The Art and Science of Remembering Everything

Moonwalking with Einstein: The Art and Science of Remembering Everything

 

  

物忘れが激しい。何かを検索しようとしてGoogleのページへ行った時には、何を検索しようとしていたのかが思い出せない。

それはまだいいほうだ。風呂のエピソードはもう少し重度な感じがする。まず、お風呂に入ってる状況を想像してほしい。そこでハタと行き止まる。さて、私は既に体を洗ったのだっけ、それともまだこれからだろうか。そこで、自分の体を触ってみる。「けっこう、つるつるしてるから、これは体を洗ったに違いない。きっとそうだ」といった推察に頼ることになる。

これはもう過去の記憶ではなく、現在からの推論である。

 

そんなわけで、自分の記憶に一抹の不安がよぎる私です。記憶力の回復を期待しつつ、そして記憶にまつわる知の全般について知りたくこの本を手にとった次第です。

 

英語で読みましたが、邦訳も出ています。

 ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由

 題名がちょっと俗っぽいハウツー本のようになっていて、そこはいま一つなのですが。また、TEDに著者のスピーチが出てまして、そちらを見てみて、自分にとって面白そうか試してみるのも手です。

ちなみに、原著はアメリカで好評を博したようで、映画化が決定したとのことです。

 

体験型ルポは、自らが試し、結果に戸惑い、ときに驚いてというライブ感が魅力ですが、この本はそれに加えて、出会った人々の人生の断片を切り取った掌編小説のようでもあり、関連文献を調査して学んだレビュー報告のようでもあり、多彩な切り口から記憶の全体像へと迫ろうとしている。

 

 記憶の鍵は、つまるところ「Bakerからbakerへ」という標語にまとめられそうだ。

会話の中でベイカーさん(Baker)という名前を出してみて、しばらくしてから相手が名前を覚えているか尋ねてみると、けっこうな割合の人が失念している。一方で、パン屋さん(baker)と言っておいて、記憶をテストすると、はるかに高い割合で記憶に残っている。

何が違いをもたらしているのだろうか?単語の長さも、発音も、綴づりも同じであり(大文字・小文字の違いをのぞいて)、情報量は等しいはずなのに。

ベイカーさんといったときに、その人物像は不定でイメージが難しい。しかし、パン屋と聞いたときには、さまざまなイメージ・五感と結びついている。お店にパンがあり、恐らく白い帽子をかぶっていて、パンを焼いた時のいい匂いもしているかもしれない。五感・特にイメージと共起する言葉は、それらがとっかかりになって、記憶しやすいようなのだ。

 

あたりまえの原則だが、その含意は広い。

例えば、共感覚者に異常な記憶力を持つ人がいることが理解できる。イメージが伴っているからだ(数字の27を見ると、とげとげしたテクスチャと茶色が見えるとか)。

共感覚者のばあいはイメージの共起が勝手に起こってしまうが、通常の人でもそれを自覚的に行えば記憶に役立てることが可能だ。それが世で記憶術と呼ばれているものに相当する。

古代に目を向ければ、書いて記憶を外部化するという習慣はなかった。すべてを覚えなければならない。記録に頼らず、学問や文学を開花させたのは驚異に思えるが、当時記憶術が広く用いられていたことが紹介される。物事を覚えて頭に入れることは、知識人に期待される当然の能力として価値を置かれていたことがわかる。暗記への軽蔑という考えは無かった。

また、古代ギリシャと言えば、ホメロスの口承文学を思い浮かべる人も多いだろう。これらの作品は、「バラ色の指をした夜明け(rosy fingered dawn)」といった類の不思議な比喩表現で溢れていることが知られている。これらの奇妙な定型表現については、記憶に頼った口承において、イメージを結びつけて記憶を軽減するため、と明快な仮説が与えられる。

OKプラトーの話も心に残った。記憶コンテストで優勝するには、「ちょっと得意」では足りない。「ものすごく得意」でなければならない。サンデープレイヤーは、アスリートに変貌しなければならない。練習をすれば上達するが、しばらくすると成長曲線は飽和して、横ばいになってしまう。この平地(OKプラトー)をどうやって超えていくか。著者の調査と実地訓練は、地に足がついている。

一方、記憶術の悪用とおぼしきケースにも著者は触れている。記憶術を用いたコンテストの競技者であり、トレーニングコースのインストラクターだった人物が、後年「共感覚者のサヴァン」としてメディアに登場し、素晴らしい記憶力を披露して脚光を浴びる。バロン・コーエン(発達心理学)、ラマチャンドラン(神経科医)らそうそうたる学者がだまされるさまは、この分野のあやうさも感じさせる。

 

本書を通して感じられるのは「内部記憶から外部記憶へ」という歴史の大きな流れだ。

大事なものは外部に在るから私はもう覚えなくてもよいという現況は、一つ一つに注意を払ってイメージして内面化するという作法をすたれさせてゆく。世界の事物を次々とザッピングして通り過ぎてゆくという態度へと社会を傾けるが、そのような現代を批判的に振り返るきっかけを与えてくれる。

ちなみに、表題の「アインシュタインムーンウォーク」は、著者にとってはトランプのスペードの4、ハートのキング、ダイヤの3の3枚組だそうです。

 

ムーウォークするアインシュタイン。こんな感じか

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